たった数秒、それだけだったのに、エースは此処に何分も立っていた気になった。
それは教諭のマルコとの間に流れる空気のせいだ。
いや、マルコに至っては普段とはなんら変わりない。が、は違った。
真っ直ぐに全てを見ていた瞳はマルコだけには向けられず、ただひたすら遊んでいる足元へと向けられている。
いつもの自分ならこんな事絶対に気付かないのだろうけれど、今回は違う。
一目で分かる。だって、は自分が唯一惹かれた女の子だから。
『じゃあ、気をつけて帰れよい』
片手に纏めて資料を持ったマルコは空いた手を淡白に手をあげて足を動かした。
階段を一歩と上りその後姿を、ただ呆然と眺めていたが追う。
何か言いたそうな顔をしていると、エースは思った。
もっと話がしたかったのだろうか、笑いかけて欲しかったのだろうか。
そして不意に、ズキンと胸が痛んだ。
エースはシャツの胸元ごとグッと心臓の辺りを握り締める。
自分の爪が食い込んだ感覚はあったが、それよりももっと、身体の中心、奥が痛い。
『ああ、そうだ。、これをやるよい』
あ、と零したマルコは何かを思い出したようで、身体半分だけへ振り向く。
名を呼ばれた事では揺れる瞳を大きくさせた。
その瞳は期待に煌いていて、更にエースの胸を抉る。
『・・・美術館の、チケット?』
『前に見に行きたいって言ってただろい?二枚もあるが期限が次の日曜までなんだよい。
美術部で余ったのを貰ったんだがおれは行けねぇし・・・』
『先生、』
が出した声は、小さい、本当に小さい声で、マルコはその声に気付いただろうか。
の視線は徐々に足元へと戻って行き、次第に表情から煌きは消えた。
マルコが「丁度良い所で会えた」とか「二枚しかないから他の奴等の前には出せない」とか
さらりと簡単に言ってしまうのは当然聞こえてないからだろうけれど。
『・・・私が、これを見に行きたいと言ったのは・・・』
やっと声を出したが泣きそうな顔をするもんだから、
『お、おれ!行きてぇ!!』
『・・・へ?』
エースは勢い良く手を上げ、急いで一歩階段を上ってマルコが差し出したチケットを奪うように取る。
あんまりにも大きな声だったからマルコもも一瞬ぽかんとした顔をしたがエースはそんな事どうでも良かった。
『マルコ先生、サンキューな!じゃあおれたち帰るから!!行くぞっ』
『うわぁっ!』
そう言うと、半ば強引にの手を引いて階段を駆け下りる。
後ろから「待って」との声が聞こえたが、風のように駆け抜けてしまってその声を耳に入れないようにした。
彼女の願いを聞いて立ち止まってしまったら、もっと心臓が締め付けられるんじゃないかって思った。
そんなの今はぐらかしたって何も変わらないのは分かっているのに、でも、止まれなかった。
制止を振り切り、変わらずエースはの手を引いた。
校門まではこの道一本が続く。地元では有名でもある豊かな桜並木に着いた頃、やっとその足は止まった。
陽が沈み薄明るくなった空は赤紫色に変わり、舞う桜の花弁は電灯に照らされ映えた。
もうほとんどが緑々しい葉桜になり葉の擦れる音だけが響き、その風は二人の髪を揺らす。
『・・・鞄、持ってきてないんですけど・・・』
『うっ』
様子を伺うように少しだけ振り返ったエースへ、言葉がかけられる。
痛いところを付かれた、と思ったがそれだけで言葉が出てこなかった。
こんな時、自分は巧い言い訳が出来ない。気の利いた言葉も紡げない。
頭をかいて振り返り、もうこれは謝ってしまおうとに向かい合う。
するとはいつも通りの顔でエースへと視線をやった。
『学校に戻ります』
『ちょっと待てよ・・・、とっ』
エースは突発的にの手を取り、直ぐに離した。
さっきと一緒で考えてからの行動じゃなかったからついつい出来た事だけれど
ふと我に返ると自分はなんて事をしているのやら。
彼女の手に、触れるだなんて。
『何ですか?』
『あの、その、』
は眉を顰めてエースを見る。言葉にはしないが「どうしてこんな事をするのか」と、
そう言った意味も含まれているのがエースには分かった。
けれど安易に「泣きそうな顔をしていたから、アイツが居るあの場から離れた」なんて言えない。
マルコに対する対抗心と、行って欲しくない下心と、自分が何故彼女の気持ちを汲めたのかも、
この真っ直ぐな瞳には全て知られてしまう気がして。
『・・・別に好きとか、そんなんじゃないですから』
『へ?』
はエースの瞳を真っ直ぐに見ながらそう言った。
誰を、とか誰が、とか言わなかったのは、やっぱりエースは何か気付いてるんだとが分かっていたからだ。
それはそうだろう。あんな風に手を引いて駆け出すなんて、ちょっとどころじゃなく変だ。
エースの気持ちは分からなくても、それくらいは分かる。
『・・・あ、ああ』
エースはの視線に縛られたまま頷く。喉から出る声は掠れていて戸惑いを含んでいた。
はエースの様子を理解した上で視線を逸らし、そのまま新緑に染まる桜の木へ向かう。
顔を見せないようにしているのはいつもの無表情が崩れてしまうからだろうか。
『別に好きじゃないんです』
『・・・ああ』
エースはただ頷く。から紡がれる言葉に否定も肯定もしない。
『あんなに年の離れた相手、なんて』
『ああ』
『おまけに鈍いし、』
『ああ』
『・・・先生だし』
そこでの言葉は終わった。
自分でもこの関係が分かってるんだと言わんばかりの後姿は、顔を見るよりも表情豊かだ。
否定して否定して、気持ちが無かったことに出来ないのは知っていても、言葉にして確認したかったのだろうか。
自分達の距離を。
『・・・でも、憧れてた』
は視界の端にエースを入れられる程度に振り返った。
言葉にしても良い相手だと判断したのだろうか。
諦めに似た声はいつもよりずっと大人びて、エースの胸を鋭く刺激する。
『・・・行こーぜ』
自分でも、ほぼ無意識に近かったと思う。
『行こーぜ、美術館』
そう言ってエースはの隣に並んだ。
やっぱり巧い言葉が出て来ない。
けれど自分が握り締めているチケットは間違いなく此処にあるし、も隣に居る。
深く息を吸って呼吸を整えると、真摯に向き合おうと思い更に身体を動かし正面に向かう。それなのに、
『・・・エース君が絵画に興味あるとは知りませんでした』
『うっ!』
彼女の気持ちが分かった気がしたのはほんの数秒。
よく見る無表情でそう言ったは身を硬くさせたエースを伺う。
『お、おれだってなぁ、時々勉強しようと思う気持ちがあってだな・・・』
エースは誤魔化すように空を見た。
もうすっかり暗くなってしまった空には星が幾つか輝いていたがロマンチックなんて欠片もない。
先刻からどうも流暢に話が進まないなんて口をへの字に曲げていると、が口を開いた。
『それは失礼しました。運動は出来るけどそれと反比例して全然勉強が出来ないって噂を聞いたものですから』
『・・・おれのこと、知ってたのか?』
『はぁ、人並みには』
噂の人ですから、そう言ったは不思議そうにちょこんと首を傾げた。
そしてあれだけ人気があり存在感がある人物を、二年間学校に通っていて知らない方が可笑しいのだと言う。
エースは瞳を丸くさせた。まるで他の事には無関心であるかのような彼女からそんな事を言われるだなんて。
『は、はは・・・っ』
エースから自然と笑いが零れる。は更に疑問符を浮かべたがにやける顔を止められなかった。
だって自分は全く彼女の存在なんて知らなかったのに、彼女は知っていてくれた。
これだけを言葉にするとなんて傲慢かと思うが、それでも良い。一気に幸せなれた。
この無表情の彼女が、自分を知ってくれていたんだ。
「人並み」なんて大していい言葉じゃないけれど、その一言で彼女が誰を好きかなんて、どうでも良くなってしまった気がした。
いや、彼女がアイツを好きじゃないと言うのなら好きじゃないのだ。それで良いじゃないか。
だったら、自分が彼女の瞳に映ると言う機会は。
『では、鞄取らないといけないので学校戻ります』
『あっ!おれも一緒に行くよ』
鞄がないと帰れない、とミントは学校を指差す。
定期も財布も携帯電話も、今日の宿題だって鞄の中だ。
勉強道具以外は全て制服に入れていたエースはミントの言葉にハッとすると慌ててそう言った。
『貴方のせいですけど・・・、まぁ、有難う御座います』
『・・・そんな』
『冗談です』
『・・・辛辣な冗談だな・・・』
エースは開いた口が塞がらなかった。
彼女が言うと、冗談も冗談に聞こえない。
無表情でさらりと何でも言ってしまう口は、心を奪われた相手にとっては武器に近いかもしれない、なんて。
『行きましょう、美術館』
そんな事を考えているとの後姿は髪を靡かせながら言葉を流す。
『え、あ、・・・ああ!』
もう少しで聞き逃してしまったかもしれないような、風に溶け込んだ声。
エースは力いっぱい返事をすると、学校へ向けて歩き出したを追いかけた。
『日曜日、楽しみです』
更にエースの耳には幸せを呼び込むような台詞が流れ込んできた。
何度も瞬いては空耳や幻聴じゃないかと頭の中で反芻するが、裏の無い直接受け取って良い言葉だと自分を抑える。
だって、折角隣を歩けるのだから、そんな事に時間を一分でも費やすのは馬鹿馬鹿しい。そもそも事実なのだから。
『おれも、すっげぇ楽しみ!!』
エースの気持ちに微塵も気付かない彼女は、どんな表情だったんだろう。
ただの社交辞令?それとも嬉しい本音?
聞きたいけれど聞けずに悶々としながら数歩後ろを歩くエースを振り向くことはない。
電灯に照らされたの背中は、やっぱり真っ直ぐ天へと伸びていた。
05.突然振ってきた「ボタモチデート」
(これは、神が僕を試しているのか?)
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