三年生になって、ニ週間が経った日の午後。
サッチは先程から紡がれる教師の丁寧な英語にウトウトしながら、寝てしまわないように机に頬杖をつく。
面倒な英語の教師に目をつけられないよう一応自分なりに我慢しているのだが、
昼下がりの心地良い気温と満腹感に満たされた神経では簡単に打ち砕かれてしまいそうだ。
両頬を叩き、もう一踏張りしようと姿勢を正す。そしてサッチは首を回して息を大きく吸い込んだ。
すると、タイミングを同じくして、けれど相反する気の抜けた大きな欠伸が隣から聞こえてきた。
まるで教師に気を使わないエースは今にも寝てしまいそうだ。
自分のように頑張って起きようなんて微塵も考えていないと分かる顔は、この授業のノートさえもとっていないと書いてある。
また後でノートを見せろ、とか言うんだろうなと思ったサッチは、ちらりとエースの顔を盗み見た。
この隣で暢気な顔をする男は
誰かから教科書を借りた日から隣のクラスに行く事が増えた気がする。
男女問わず人気のある彼は自分のクラス以外に足を運ぶこと自体珍しくなかったが、特定のクラスに入り浸ることはなかった。
確かにイゾウとは仲が良い。けれどわざわざ、ほぼ毎時間彼の教室に行く理由なんて無い筈だ。
エースの気紛れだろうか、それとも何かあるのか、ただただ気になった。
『お前さぁ、よく隣のクラス行くよな?』
『は、はぁ!?』
休み時間、気にかかったものを胸に留めておけないサッチはエースへと問う。
何にも考えてない。そう、ただ気になっただけなのだから。
けれどエースにとってはたいそうな質問だったらしく、座る椅子から転げ落ちてしまいそうなほどに後ずさりをする。
『い、行ってねぇし!』
『行ってるって。てかさっきも行ってたじゃねぇか』
『行ってねぇって言ってんだろ!?』
何故か顔を真っ赤にしたエースに、サッチは眉を寄せた。
隣のクラスに行ってると言っただけなのにどうしてこんな表情になるんだか。
初めて見るエースの反応に両腕を頭の上で組み眺めていると、エースは何か言いた気な表情を浮かべている。
『・・・なんだよ』
『何でもねぇよっ』
そう吐き捨てたエースは制服のポケットに手を突っ込み、舌打ちをした。
何なんだと言おうとしたのが分かったのか、
エースはバツが悪そうな顔を隠すかのようにサッチを通り過ぎると、ドアを乱暴に開けた。
『って、また隣のクラス行くのかよー?』
『違ぇよ!便所だ!便所!!』
エースはサッチを鋭い眼光で睨みつける。
サッチは普段、大雑把なくせして時々ピンポイントで確信をつくと言うか目敏いと言うか。
けれど、自分が彼女のクラスに忙しなく通っていることまでは知られたくは無い。
しかも毎日足しげく通っているにも関わらず、イゾウの直ぐ後ろに居るにも関わらず、
彼女の名前すら聞くことも、自分の名前すら伝えることも出来ないでいる、なんて。
エースはトイレにでも行って顔を洗ってくれば少しはこの気持ちもスッキリするかもしれないと思った。
この自分の腑抜けた顔をサッチに、いや、誰にも見られたくない。
気持ちを切り替えようと廊下を出た、その時、
『・・・あ、』
『おわっ!!』
今しがた考えていた彼女と、なんとばったりと鉢合わせ。
体操服を着ていた女生徒は校庭へと行こうとしているのだろう。
いつも一緒に居る友人と肩を並べて歩いていた。
教室から出たことによって彼女の進行方向を閉ざす形になってしまったエースは、
勢いよくポケットから手を引き抜き姿勢を正す。
『こ、この前はどうも・・・っ!!』
『いいえ。困ってたみたいだったから、・・・貴方が』
そう言って、女生徒はエースを指差す。
相変わらず表情が変わる事は無かったが、何かに言葉を詰まらせた事は分かった。
『エッ、エース!おれの名前!』
『・・・エース君』
『そう!』
咄嗟に自分の出た名前を、エースは思った以上に大きくなった声で伝える。
自己紹介すら出来ずにいた二週間。やっと自分の名前を伝えることが出来た。
彼女のクラスメイトのイゾウに聞こうかと思ったことも多々あったが、
今までの自分の性格からしたら気恥ずかしくてそれどころじゃなかった。
けれど今、女生徒に名前を呼ばれ、天邪鬼で素直になれずずっとチャンスを逃してきたのが払拭された気がした。
『エース君、』
『あ?』
小さくガッツポーズをしていると女生徒の隣に居た友人が、エースの名前を呼んだ。
エースが視線をやると、友人はにこりと微笑みを向ける。
『この子ね、って言うんです。宜しくして下さい』
『ミント』
「自分の名前もちゃんと相手に言わなきゃ」、と言った友人―ミントと呼ばれる女生徒はに向かってそう笑う。
穏やかな笑顔は花のようで、その色香にが口を結んだのが分かった。
はミントにチラリと視線を向ける。
目を見合わせた途端、二人間を取り巻く空気が柔らかいのがこちらにまで伝わってきた。
『この子、無表情だけど素直でいい子ですから』
『お、おう』
『ちょっと、もういいよ』
ほら、心なしかの表情も解れた気がする。
ミントにいい子と言われて照れているのだろうか、初めて見る変化をエースはぼんやりとした瞳で眺めた。
『・・・じゃあ、また』
『ああ、また・・・っ!!』
そう言ってはミントの手を引く。エースに軽く会釈をした後は、足早にその場を去ってしまった。
一人残されたエースはもう今は居ない人物の軌跡を追う。
そこで、二度目の会話に緊張していた身体から、やっと力が抜けた。
そして今までのなんでもないやりとりを一人反芻する。
『「また」、だって・・・』
交わした言葉は、たったそれだけ。それだけだったけど。
エースはにやける顔を両手で覆い、ドアの隣、教室の壁に寄りかかった。
行き来する生徒達の誰にも見られないように。
『・・・顔、洗おう』
先程と意図は違うが、やっぱり顔を洗い気持ちをサッパリさせようとエースは壁から背を離した。
まだ顔は熱を持っていて、それを冷ます為に今すぐ水をかぶりたい気分だった。
けれどそこでハタリとエースの足が止まる。そして、
― 違ぇよ!便所だ!便所!! ―
彼女と会った瞬間を思い出した。
『おぉぃ・・・、なんて言葉を大声で言っていたんだ、自分は』
エースはその場にしゃがみ込み、頭を抱える。
自分は大声でなんて言っていた?
それはそれは品の欠片の無いことを、でかい声で言っていなかっただろうか。
絶対に聞かれていた。あれだけの声と距離なら聞かれていないわけが無い。
相変わらずの無表情だったが、内心彼女はどう思っただろう。
『あらら?エース君、もしかして恋ですかぁ〜?』
いつの間に後ろに居たのだろう。しゃがみ込んだエースの顔を覗き込むかのように、サッチは屈んだ。
緩んだ声は癪に障り、エースはガバリと身体を起こす。
『てめぇっ!』
真っ赤になったエースはサッチの胸倉を乱暴に掴んで顔を引き寄せた。
エースの腕っ節は勿論知っていたがだからと言ってサッチは全く怯まず、
寧ろ傍から見たって憎らしいほどにニヤニヤとした笑みを浮かべる。
『お前、いや、お前等!絶対邪魔するなよ!』
サッチにバレたのならイゾウにはもっと前に知られていたかもしれない。
彼はサッチのような性格じゃないから、きっと分かったとしても心に秘めているのだろう。
けれど、サッチに気付かれたらそうはいかない。きっと、自分の仲間は明日にでも全員知っているに違いない。
と、言うか、もしかしたらの隣に居る、あのミントと呼ばれていた友人も気付いてるんじゃないだろうか。
だから彼女と自分の間に入って会話を紡いだのではないだろうか。
『何々?最近途端に変わったところを見ると、もしかして彼女に一目惚れ?』
『まじかよ・・・』
自分でも思わなかった分けじゃない。
一目惚れなんて、まさか、そんなって思ってた。
でも、サッチがそう呼ぶのなら、確定だ。
03.隠せ、この想いを
(好きだなんて、どうしてお前にバレた?)
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