始まってから一分たりとも頭に入らなかった授業が終わった。
いや、元々勤勉な方ではなくどちらかと言えばいつもそうだったかもしれないが、今日は本当に頭に入らなかった。
この教科書を貸してくれた彼女の事が、どうしてか忘れられない。
そわそわしていた自分に気付いた隣の席のサッチに途中、
「教科書を借りる時に何かあったのか」と図星をつく言葉を言われたが、
余りの図星っぷりで「うるせぇ」と返すのがやっとだった。
教科書が視線に入る度、思い出して仕方ない。
差し出された小さな手、風に揺れる髪、桜色の唇、真っ直ぐな瞳。
よし!と気合を入れたエースは席をガタリと鳴らすほどの勢いで立つと隣のクラスを目指した。
『・・・お、おい。イゾウ!』
の、割にはその勢いはたった数メートルで終止符を打った。
コソコソとドアから友人の名前を呼んだエースは周りを気にしながら忙しなく手招きをする。
『何だよ』
先程の事がショックだったのか、イゾウは顰め面のまま廊下で待つエースの隣に立つ。
しかし、不意に過ぎった思考に、イゾウの表情はいつも通りに戻った。
今までの二年間、我が物顔で全ての教室へと入ってきたエースがドアから人を呼ぶだなんて珍しい。
三年生になったから自重し始めたのか、とか思ったがそんな事はきっと無い。
どうせただの気紛れかと気の抜けた表情をしていると、エースが目の前に教科書を差し出した。
『これ、返しておいてくれ。あの、あれだ。お前の後ろの席の女に』
『はぁ?』
突然目の前の視野を奪った国語の教科書相手に、イゾウはまたも眉を顰めた。
何を言い出すのかと思ったが、そう言えば先程コイツがコレを後ろの席に座るクラスメイトに借りていたことを思い出す。
『自分で返せ。そして礼をちゃんと言え』
『見当たらねぇから言ってんだ!』
『ちゃんとクラスの中入って見てねぇだろ!こんな所から見えると思うなよ!』
『くぅ・・・!』
イゾウの言葉に、エースは次の言葉を紡げない。
こんな廊下からしかも身を隠すようにしていたら見えるわけがないのは確かだ。
自分だって分かってる、言われなくたって、そんなの十分過ぎるほど分かってる。
いつものように気兼ねなく入って行って「有難う」と一言言えば良いだけなのは。
『ほら、あそこに居んだろ!?』
教室内を覗きすらしないエースの代わりに目的の彼女を探したイゾウは、後姿を見つけてそう吐き捨てた。
知らない相手だとしても、人から借りたのならちゃんと礼をしなければならない、と念を押すとエースを教室内へと突き飛ばす。
不意に背中を押され乱れた足取りを慌てて直すと、友達と話しているだけの後姿がまたもエースの息を止めた。
二年も学校に通って初めて知った彼女の存在。
全ての教室を行き来していた自分ならきっと何処かで擦れ違っていただろう。
もしかしたら肩がぶつかったことすらあるかもしれない。
けれど今まで瞳に映らなかったのが不思議なくらい、今彼女の背中が特別に見える。
『あ、あのぅ・・・っ!』
ごくりと息を呑んだエースは、女生徒の後姿に声をかけた。
少しばかり声が裏返ったのは気のせいではない。
変な声が出たせいか自分が呼ばれていると思わなかったのだろう。
振り向かない女生徒の友人が「呼ばれているよ」、とエースを指差したのをきっかけに、彼女はゆっくりとエースを振り返る。
『・・・あのっ!これ!貸してくれて助かったっ!』
エースは教科書を見ながらしか話す事が出来ない。
今の自分が背中を見ただけで息を止めたなら、顔を見てしまったらその途端爆発してしまうんじゃないかと本気で思えた。
多分自分をじ、と見ているだろう相手に、教科書を差し出すのがやっとだった。
『ああ、はい。・・・どうも』
しかし、返ってきた声の温度は至って低く、熱くなっていたエースとは明確な温度差があった。
直ぐに教科書は受け取られ、彼女は友人の方へと向き直す。
多分、借りた時に見たと変わらない無表情なんだろう。
『・・・あれ?』
一時間みっちり考えたのに、返すのにあれだけ困ったのに、結果は何も起こる事無く直ぐに終わってしまった。
本当は名前を聞こうか、とか、これからも宜しく、とか、何かしら言いたいと思っていたのに。
自分が思考を奪われて居た相手は、自分の事など視野にすら入れていなかったらしい。
教科書だって困っていたから貸したまで、と言うわけか。
くるりと踵を返したエースは落胆に似た表情を浮かべて頭をかいた。
背中は心なしか丸くなり、いつもの覇気を携えていない。
クラスから出る時「ちゃんと礼を言ったのか」、とイゾウから声をかけられたが
それにも答えることが出来ず、ただただ、自分のクラスへと足を動かした。
『なんだ、溜息なんてついて』
珍しいな、そう言ったサッチは隣に座るエースの顔を覗き見る。
にやりと笑った顔は悪戯心と好奇心が入り混じり、心配している様子など無いことが分かる。
『見るな』
サッチの視線を回避するようエースは椅子に浅く腰掛けたまま背凭れに体重を預け無機質な天井を見た。
別に、自分が誰からも好かれる人間だなんて思っていない。
けれど今まで女性徒に告白されることだって多々あった自分への反応は、もう少しあっても良いのではないかと思った。
「―ん?」と零したエースの思考は、そこで止まる。
やっぱりなんだかんだと言って彼女も自分を意識しているんじゃないかと考えていたのか。
教科書を貸してくれたのは、もしかしたら自分を知っていて、それで話しかけてくれたのかもしれない、なんて。
『あーあ、おれ、カッコ悪ぃ・・・』
そう言ったエースの声にサッチは首を傾げた。
一体何のことを言ってるのかと聞こうと思ったが、そのまま机に突っ伏してしまったエースにそれ以上の言葉はかけられなかった。
あの反応は全く無反応だった。彼女の表情と同じ、ただの「無」。
そう思ったら、胸の何処か奥の方がチクリと痛んだ。
02.ただただ、なんとなく
(無意識な僕の視線は、彼女のもの)
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