『おい、イゾウ。国語の教科書貸せ』
それは4月に入って初めての授業。三年生に進級したエースは初めての忘れ物をした。
『・・・お前、昨日教科書配布されたばっかりだろ』
光射す校庭に植えられてた桜の木は葉がちらほらと出始めていたが、まだ花の範囲が広い。
時々温かい風と共に花弁が踊り、軌跡を描いては開いた窓から教室へと滑り込んだ。
真白いカーテンが揺れて、春らしいくすぐったい香りを運ぶ。
『おれはなぁ、担任が持って帰れって言うから素直に持って帰ったんだよ』
『したら忘れたんだろ?・・・初めての授業なのに』
癖のある髪を撫でるように頭をかき口を尖らすエースに、呆れ顔のイゾウは溜息を吐いた。
エースとは真逆の髪質を持つ彼は、しっかりと姿勢を正したまま机の中を漁る。
『・・・ん?』
『・・・あ?』
ピタリと動きを止めたイゾウは間の抜けた声を出してエースを見た。
手には今日ある授業の教科書やノートの筈だったが、眉を顰めたところを見てエースはハッと声を漏らす。
『イゾウ!お前も忘れたんだろ?』
にやり、と意地悪の悪い表情をしたエースは視線を合わせないイゾウを笑うが、それでもイゾウは眉一つ動かさなかった。
だって自分でもエースと同じように最初の授業で教科書を忘れるだなんて思いもしなかった。
今までクラス委員や生徒会を経ていたしっかり者と自他共に認められている自分が、まさか、そんな。
『・・・もうやだ、お前他のとこ行け』
イゾウがエースに聞こえるか聞こえないかの声でそう言った時、イゾウの手元にある腕時計が視野に入った。
時刻はそろそろ始業時間を指している。
『やべぇ』
そう言うとエースは周りを見回し舌打ちをした。
そしてクラス替えをした時にもう少しメンバーを見ておけば良かったと思った。
昨日あったクラス替えは自分の居場所だけ確認した。
基本的に誰が自分と同じクラスに居ても学校生活を楽しめると考えていたし、
クラスの振り分け表を貼り付けてある廊下は混雑してて正直、居たくなかった。
『んだよ、他のクラス当たれば良かった』
確実に思い当たるのは、昨日たまたまクラス替えを自己申告してくれたイゾウだけだったくせに、
エースはイゾウがさも悪いかのように責任転嫁をする。
そもそも自分が教科書を忘れたくせに、といつものイゾウなら言い返したのだが、
今回の事は思いの他ショックだったらしく、イゾウに反応は無い。
どうしようかと腰に手をやり誰でも良いから声をかけようとしたその時、消えてしまいそうな声が聞こえた。
『あの・・・』
『あぁ?』
多分、これは自分に向けられた声だ。
エースが声の方向へと振り向けば、イゾウの後ろの席からスッと教科書が差し出された。
元々の持っていた柄の悪い声と表情が出てしまったのは、突然の出来事のせいだと思う。
が、半ば慌てていたせいだとしても、その差し出された手をビクリと震えさせるには十分な要素だったかもしれない。
『・・・これ、教科書?』
聞くまでも無いほどでかでかと「国語」と書かれたものを出されたのだが、エースは思わず聞いてしまった。
それでもまだ理解していないのか、目をぱちくりとさせていたエースだったが、教科書を持つ白く細い指に視線を奪われた。
そのまま無言で制服を纏っても頼りないと分かる腕にのぼり、さらりと風に靡く髪が揺れている肩へと移る。
ああ、女生徒だったのかとぼんやりした頭で考え始めた其処で漸く、エースはその人物の顔を見た。
『あの、国語の教科書忘れたって聞こえたから。良ければ使って下さい』
そう言った女性徒はエースの反応に関係なく、ずい、と教科書を更に彼の胸元へと近づける。
彼女の表情は「無表情」、と言う言葉が一番適切だろう。
にっこりと微笑むわけでもなく、恥じらいに頬を染めるわけでもない。
だからと言って傲慢な態度でも優等生気取りというわけでもなく、ただただ、「無」だ。
エースが目を丸めていると、先程から窓から入る心地の良い風は二人の間を擦り抜けまたも桜の花弁を誘い込んだ。
花弁は女性徒の髪を撫で、同じ色の唇を通り過ぎ、はらりと教科書を持つ白い手へと舞い落ちる。エースは瞬間、息を呑んだ。
同じくして、始業のチャイムが学校全体へと鳴り響く。
それは何も変哲の無い、学生なら嫌と言うほど聞きなれた音。
他の生徒が席に着く音、話す声、校庭から聞こえるボールを蹴る音、
様々な騒がしい音が行き交っていると言うのに、エースの耳にはチャイム以外入らなかった。
頭の片隅では早くクラスに帰らなければと思うのに、国語の教師は面倒なマルコ先生だと言うのに、
「有難う」と今すぐ言わなければならないのに、この手で教科書を受け取らなければならないのに、
それなのに、エースの身体はどうしてか、動く事を忘れた。
01.授業開始のベルはもう一つの始まりをも知らせた、らしい
(まだ僕には分からないけれど)
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